三菱自動車のクルマはどのようにして作られているのでしょうか。調査、企画、デザイン、設計、試作、テスト、購買、生産、物流、販売という一連の行程があり、それぞれの行程を高い技術力を持ったプロフェッショナルが担っています。今回から掲載を始めるこのシリーズでは、三菱自動車の各職場で働く人々を紹介していきます。第1回は、工場の生産部門の塗装編です。前後編に分けて紹介します。
逆境を乗り越え、自身の糧にする挑戦者

鈴木憲司さんは、当社関連会社「東洋工機」(のちのパジェロ製造*)に入社以来、現在まで約40年塗装ひとすじでキャリアを積んできた。その職歴と優れた技能、指導力が高く評価され、2021年9月には当社の「ものづくり道場」の4代目塗装道場主に任命。「ものづくり道場」とは、2006年から熟練社員の専門知識や卓越技能を、次代を担う社員に確実に伝え、当社のものづくり競争力をより強化することを目的に創設された教育制度だ。そんな鈴木さんに話を伺った。まず、入社のそもそものきっかけから。
「私が学生の頃、三菱自動車では『スタリオン』、初代『パジェロ』など、そうしたクルマに凄い人気がありました。それで私も「乗ってみたいな」という気持ちにさせられたことから、自動車関係の会社に入りたいと思いました。たまたま、実家(岐阜県瑞浪市)の近くに三菱自動車関係の会社があったので、入社を希望しました」
それが1986年4月のこと。配属先は塗装課だった。板金、塗装、組立とある中で、200名の採用のうち、20名が塗装課だった。これまで塗装一筋のキャリアを歩んできた鈴木さんだが、入社当時は希望していたわけではなかったと話す。
「私は、なんとなく組立関係がいいなと思っていました。ただ配属された職場で頑張ろう、求められている役割を果たそうと思いました。現在、クルマの塗装工程のほとんどが自動化されていますが、昔は塗装の職人が1台の車両を8人がかりで手作業で塗っていました。塗りのスペシャリストが沢山いましたので、技術的にもあこがれでした。当時は毎日残業3時間は当たり前、土曜日も休日出勤で仕事漬けという日々でしたね。先輩たちに追いつきたい、彼らのようになりたいという想いで、まずは目の前の仕事をひとつひとつ、きちんとこなそう。そういう気概で必死に働きました」
とはいえ、一流の職人となるまでには数々の失敗を経験した。そのひとつ。
「21、2歳の頃です。シーラー班(防水や防錆を目的に、自動車のボディパネルの接合部や継ぎ目部分にシーリング剤を塗布するチーム)専属で、ルーフ工程といって屋根にシーリング剤を塗布する工程を担当していたことがありました。そこで雨漏れ不具合を出してしまいました。合わせ目にすき間ができてしまって、水が車内に入ってしまったのです」
「これはシャワーテストラインにクルマをいれたときに初めて水漏れがわかるのですが、連続8台くらい雨漏れ不具合を出してしまいました。あまりのショックから夢にまで出てくることがあったくらいです。当時は厳しい時代でしたから、ガツンと怒られました」
「そのときに、誰が塗布しても雨漏れがでないシーラー塗布はできないものかと考え、シーラーガンのノズルの改良に取り組みました。ノズルの長さを変えたり、ノズルの先端を改良してみたり試行錯誤しました。こういう経験から作業効率の改善ができることがわかり、その後はいろんな改善を会社に提案できるようになりました」

ひと口に塗装といっても、いくつも工程がある。順に前処理電着(電気を流して塗料を付着させる最初の下塗り)、シーリング、研ぎ、中塗り、上塗り(メタリック系の場合は更にクリアも)、乾燥、検査(磨き補修)である。すべての技術を修得した鈴木さんは、一流のプロフェッショナルと言えるだろう。塗装の難しさはどこにあるのか。
「塗装は日光(紫外線)や風雨(酸性雨)にさらされるボディを、傷や錆などのダメージから守って長持ちさせます。そのためには、塗装の品質が優れていなければ、人を魅了する美しいクルマは作れません」
「例えば、基本、手吹き塗装をする時、塗装部とスプレーガンとは一定の間隔を保ち、同じスピードで塗っていかなければならないので技術が必要です。ロボットなら決まった間隔を一定に塗布できますが、人ですと、間隔が近かったり離れたりすると色が変わってしまいます。しかし、ドアの内側など今でも人の手でなければ塗装できない工程があります。毎日、塗りの訓練をすれば、1か月ほどでできるようにはなる。初級のレベルですね。ただ、まだ一人前というわけではありません。一人前になるには研鑽がさらに必要です」

手作業で対応する必要のある、開口部の手吹き塗装の様子
1台1台、妥協のない品質を追求

塗装部門一筋に歩み、なかでも「塗装の花形」といわれる最終工程の「上塗り」を専門としている越智良博さん。2025年4月より、岡崎製作所の4代目 塗装道場主の鈴木さんからバトンを受け取り、塗装道場主に就任。後進の育成にあたっている。奇しくも、越智さんの父親も当社水島製作所で溶接道場主を務めていた。
「私は高校時代レスリングをやっていて、全国大会に出場したときに大学から推薦のお話をいただきました。ただ、教員免許を取って、引退後は後進の指導にあたってほしいといわれたのですが、私は人前で話すのは得意ではなかったので、ご辞退することとして、進学はせず就職を考えました」
「私は岡山県倉敷市の出身で、父親は水島製作所で道場主をしていましたから、当然、父親の背中を見て育ち、父の影響を受けていたと思います。クルマは好きでしたし、選ぶとしたら三菱自動車しかありませんでした。当時、父親の工場の知り合いが大勢うちに来られて、子供の頃からいろんな人に面倒を見てもらっていたので、三菱自動車は家族みたいな会社でした」
入社は1996年4月。配属先は塗装課になった。最初の3年間は、完成車の塗装不具合の手直し作業に従事する。
「塗装の手直しは、孤独な作業なので自分に向いているかなと思いました。組立の工程で傷が付いたので、ここを直してくださいと要請が来るのですが、傷の場所はなにひとつとして同じものはありあません。ただ黙々と、淡々と仕事をこなしていくことが自分に向いていると思ったのです」
このときに出会った師匠の言葉が、越智さんの職業人生の柱となった。
「私は1台1台塗っているときに、必ず『これが自分のクルマだったらどうなのか』と考えるようになりました。会社にとっては1日製造する中の500台なのかもしれませんが、お客様にとってはそれが唯一の1台です。それを教えてくれたのが、最初の師匠でした。私が19、20歳の頃で、よく言われました。『失敗したんだったら自分で買えよ』『無理です』『だったら、お客さんに届けるのだから、手を抜くな』というわけです」
「無口で、父と仲良くしていた同年代でした。昔の人なので、背中を見て覚えろという職人です。師匠にはみんなが認める技術があり、失敗をしない。教えてくれる先輩は沢山いましたが、私はこの人と決めて、金魚のフンじゃないですけど、ひとつひとつ小さな作業でも背中を追って学んでいきました。今の時代ではきちんと教えないといけないわけですが、失敗したら自分で考えろ、そういう中で鍛えられました」
鈴木さん、越智さんとも塗装一筋に研鑽を重ね、その道で一流のプロフェッショナルとなりました。その卓越した技術は、どのように伝承されていくのでしょうか。三菱自動車には、「ものづくり道場」という独自の教育制度があります。後編では、道場主になったお二方に後進の指導について話を伺います。
※2021年8月まで『パジェロ』や『デリカD:5』などを生産していた企業。