
三菱重工としての日本国内におけるラリー活動は1965年から始まっていたが、それから2年後の67年、三菱車は国際ラリーの舞台へと踏み出すこととなった。65年11月に発売したコルト800のオーストラリアへの輸出を検討した三菱重工は、同車の信頼性・耐久性の確認のため、66年に現地での走行テストを実施することとした。その走行テストの取りまとめを依頼したダグ・スチュワートから、サザンクロス・インターナショナルラリー出場の提案があったのである。これを検討した三菱重工の自動車事業部は、ラリー出場が乗用車の販売促進とブランドの知名度向上に効果があると判断。かくして67年10月のサザンクロスラリーにコルト1000Fでの出場を決定した。2台のコルト1000Fは、高い信頼性と耐久性を武器に大排気量車を相手に健闘。コリン・ボンドが総合4位で小排気量クラス優勝、スチュワートもクラス3位という結果をもたらす。ここに「ラリーの三菱自動車」と呼ばれる礎が築かれたのである。

その後も三菱重工はサザンクロスラリーへの挑戦を続け、68年にはコルト1100F、69年にはコルト1500SSとコルト11F SS。71年にはギャランAⅡ GSと、次々に新しい車両を投入し、ノウハウを積み重ねた。のちにラリーアート・ヨーロッパの代表として活躍することになるアンドリュー・コーワンをエースに迎えた72年には、ギャラン16L GSを2台、ギャランGTO 17Xを2台投入。コーワンのギャラン16L GSはクラッチとブレーキの不調に悩まされながら、ライバルの日産フェアレディ240Zに24分もの大差をつけて三菱自動車に初めての総合優勝をもたらした。なお、70年の4月には三菱重工の自動車事業部が分離独立をし、三菱自動車工業株式会社(以下、三菱自動車)が設立された。
世界ラリー選手権(WRC)が制定された73年、サファリラリーでギャラン16L GSが三菱車として初のWRC参戦を果たした。ドライバーはプライベート出場のジョギンダ・シン。三菱自動車は10月のサザンクロスラリーに、ラリー活動の集大成といえる高性能車ランサー1600GSRを5台投入。コーワンを筆頭に1-2-3-4フィニッシュを成し遂げた。三菱自動車は、74年4月のサファリラリーにランサー1600GSRのラリー仕様車を送り込むことを正式に決定していたが、第一次石油ショックにより出場計画を白紙に戻すこととなった。しかしシンは諦めず、東アフリカ向けに輸出されていた4ドアのランサー1600GSRを自費で購入。三菱自動車はその熱意に応えてシンの出場を支援すべく、ラリー用のパーツをケニアに送り込んだ。そしてシンの力走によって、サファリ初出場のランサー1600GSRは三菱自動車にWRC初優勝をもたらすこととなったのである。
その後もランサー1600GSRの進撃は続き、77年の活動終了までサザンクロスラリーで3勝(74〜76年)を挙げ、サファリラリーでは76年に1-2-3フィニッシュという偉業を達成した。そして77年12月、バンダマラリー(コートジボワール)で三菱自動車チームは、コーワンとシンが1-2フィニッシュ。ワークスカーとして最後のラリーを戦ったランサー1600GSRの有終の美を飾った。