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RALLI ART

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増岡浩のパリダカ参戦への軌跡を知られざるエピソードとともに振り返る
【No.1】 1985〜1988 衝撃だった初代パジェロ

【No.1 1985〜1988】 【No.2 1990〜2001】 【No.3 2002〜2006】



1985年ファラオラリー 総合3位を獲得
増岡はパジェロで華々しい海外ラリーデビューを飾った



1985年ウインズサファリでも総合3位と実力を発揮
当時の参戦車両はピックアップタイプの三菱フォルテ



1987年パリダカ初参戦。砂漠の洗礼を受けて
増岡は仏へ修行に出る決意をする

  実家が埼玉で木材業を営んでいた関係で、私は早くから自動車に対する興味と接する機会を持ち、幼い頃から4WDに興味を抱いて育ちました。最初に競技に出たのはオフロードのタイムトライアルで19歳の時。その後、当時三菱自動車の海外企画部広報宣伝グループ長で後にラリーアート初代社長となる近藤昭さんに認めて頂き、22歳で三菱モータースポーツの開発現場の一端を担っていたテスト&サービスとドライバー契約を交わしたのがこの道に入ったきっかけです。当時は国内のオフロードレースにジープで出場していましたが、82年の初代三菱パジェロの登場はまさに衝撃で、最初のシェイクダウンの際に当時最速だった自分のジープのタイムを軽々上回ったのをはっきり憶えています。
その後レース用のパジェロはさらに速くなり、83年、84年と国内選手権でチャンピオンを獲得。85年からは待望の海外ラリーに参戦を開始しました。最初に出たのはエジプトのファラオで、いきなり3位に入賞。その後オーストラリアン・サファリ(当時の名称はウインズ・サファリ)でも2年連続で3位に入りましたが、当時はパリダカに出てみたくて仕方がなかった。スピードには自信があり、国内では負けなし。パリダカでも10位にはなれると信じていたんです。

その念願がかない、87年大会に俳優・夏木陽介さんのチームの2 号車を駆って初出場したのですが、それだけでは勝てないと、あっさり思い知らされました。エンジンの点火系のトラブルで10 時間もペナルティを受けてしまったのです。いま思えばつまらないトラブル。そして、その翌年はもっと悪かった。燃料パイプに泥がつまって砂漠で立ち往生です。前日、クルマはたしかにその兆候を示していたのに当時の私には発見できなかった。砂漠のこと、クルマのことを知らなさすぎたんですね。ラリーには完全に取り残され、夜になって非常食の缶詰を食べながら、このままでは一生世界で勝つことはできないと覚悟をきめました。実家を飛び出し、紹介してもらったフランスにある三菱ラリーアートの関連ファクトリーでメカニックとしてゼロから修業することにしたんです。
88年12月のことでした。そこは、10人ほどの小さなガレージで、まだ16歳くらいの見習いの子にアゴで使われていました。フランス語の日常会話はもちろん、工具の名前もパーツの名前もわからない。最初は床磨きしかやらせてもらえませんでした。日本でチャンピオンだった実績やプライドは全く意味を持ちません。片道2 時間の通勤時間は睡魔と格闘しながら、辞書を片手にフランス語を必死になって勉強。夜は夜で、油まみれで、くたくたになって帰る毎日です。パーツについたオイルの汚れを落とすのに強い洗剤をつかっていたので、掌はあかぎれだらけ。それを瞬間接着剤で止めるんですが、これも酷く滲みるんです。

就労ビザを取得出来ない修業の身のため、給料はゼロ。日本からもっていった全財産280万円の生活費は家賃の支払いなどで、あっという間に底をつきましたが、辛くて逃げ出したいとは思いませんでした。89年のパリダカにはもちろん出場出来ず、パリのスタート会場で最後の一台まで競技車を見送りました。そのときの悔しさがバネになって辛い生活にも耐えることができたのかもしれません。89年のある日、その翌年のパリダカに向けて3台のクルマを製作しているときにガレージの社長に肩を叩かれ「これは、おまえが乗るクルマだ」と言われたときには、涙がでるほどうれしかったです。
→No.2へつづく
■主なラリー戦績
1985 エジプト・ファラオラリー 三菱パジェロ 総合3位
1985 ウインズ・サファリラリー 三菱パジェロ 総合3位
1987 パリダカ第9回大会 三菱パジェロ プロトタイプクラス 総合29位
1988 パリダカ第10回大会 三菱パジェロ プロトタイプクラス リタイア
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