PART2 三菱自動車はラリー競技から何を得たのか

ライバルとの戦いの中で続く挑戦の日々

広報部
増岡 浩

パリダカで日本人初の総合優勝2連覇を果たしたラリードライバー

先行技術開発部
乙竹 嘉彦

パリダカ等のクロスカントリーラリーを主に担当していたエンジニア

先行技術開発部
田中 泰男

WRC・パイクスピーク等のスプリントラリーを主に担当していたエンジニア

ラリーアートビジネス推進室
大谷 洋二

当時モータースポーツ活動のプロモーションを主に担当

「クルマが巻き上げた埃や砂が舞う中を走り、橋のない川を渡るラリーでは、エンジンへの空気の取り入れ方一つとっても細心の注意を払って開発しなければなりません。開発チームの力量が問われるんです。実は悪路でもスピードが遅いときはどのクルマもそんなに変わらない。ハイスピードになればなるほど技術力の差が出ます。」
そう話すのはダカール・ラリーに20回出場した増岡浩。当社はオンロードとオフロードのバランスを究極まで追求しながら『パジェロ』の性能を向上させましたが、世界の自動車メーカーが参加するダカール・ラリーでは幾多の壁が立ち塞がりました。
エンジニアとしてダカール・ラリーに参加していた先行技術開発部の乙竹嘉彦は「常に新しいことに挑戦しないとレースでは勝てなかった」とラリー競技の厳しさを噛み締めながら振り返ります。乙竹には忘れられない競合車がいました。

「私たちにとって、障害物は避けて走るのが当たり前でした。ところが94年にシトロエンが障害物を乗り越えて真っすぐ走るバギーのようなクルマを開発してきたんです。我々が92、93年と連覇してきた実績など役に立たず、96年までシトロエンの後塵を拝しました。」
97年には規則変更により、ワークスは市販車改造車両に制限されたため、『パジェロ』の市販車ベースのラリー車を新規開発し、競合車はプライベーターのプロトタイプ車両となりました。
新型車は市販車『パジェロ』の持つ素性の良さに、これまでのプロトタイプ車両で培った技術をプラスする事で、短期間で高い戦闘力を発揮しました。結果、同一メーカーとして史上初の1~4位独占を達成。そのノウハウを活かして開発されたのが市販車の『パジェロエボリューション』です。リアサスペンションにもダブルウィッシュボーン独立懸架式を採用。新開発のMIVEC(バルブタイミング可変機構付)6G74型エンジンが投入され、シャシーの剛性も強化されました。増岡も『パジェロエボリューション』の戦闘能力に驚いたと言います。
「僕が本当に優勝を狙えるようになったのは乙竹たちが造った『パジェロエボリューション』に乗るようになってからです。初優勝した2002年の3代目『パジェロ』は『パジェロエボリューション』の良さを引き継ぎながら進化していて、特に完成度が高かった。心強かったのはどんなにダメージを受けても、メカニックが夜を徹して整備してくれ、朝にはクルマが完全な状態になっていたこと。クルマとチームを信じて、ひたすらアクセルを踏めたことが勝因です。」
厳しい勝負がエンジニアとドライバーを成長させ、チームの一体感が醸成されていきました。

1997年『パジェロ』T2

2002年『パジェロ』(スーパープロダクション仕様)

WRCでも多くの人材が育ちました。「WRCやダカール・ラリーに魅了され、大学時代からラリー競技をやっていました」と話す先行技術開発部の田中泰男もそのひとり。
「『ランサーエボリューション』の場合、市販車とはいえラリーに勝つというのが開発の大前提。競技の現場にいるエンジニアはもちろん、市販車を造る人も、こだわりを持って、新しいことにチャレンジしていましたね。運動性能の高いクルマだったので、モータースポーツに参加するお客様も多かった。それも僕たちのモチベーションになりました。三菱自動車で働いていることが誇らしかったですね。社内にはクルマの専門家がたくさんいたので、何か不具合が起きたら聞きに回ったのを覚えています。」
厳しい勝負の世界を共有することで、ラリー競技のようにどんな路面でも助けてくれるクルマをつくるんだというスピリットが当社のエンジニアに染み渡っていきます。そんな人材育成こそラリー競技に参戦することで当社が得た大きな財産です。

1993年『ランサーエボリューション』

会社に所属する1人ひとりがともに闘った

ラリー競技に参加することで三菱自動車という会社自体も変わっていきます。ラリーアートビジネス推進室の大谷洋二は「モータースポーツの特殊性が影響している」と分析しています。
「ドライバーが肉体的にも精神的にもギリギリのところで勝負するという意味では、まさにスポーツです。一方で、モータースポーツならではの特徴が表れるのが、メーカー部門です。企業と企業が本業そのものである商品でタイトルを争うスポーツはほかにありません。当時の社員はエンジニアでなくても、自分も戦っているんだという意識を持っていたと思います。」
市販車をベースに戦っていたからこそ、関連する部門は多い。開発部門はもちろん、商品企画、生産、品質保証、販売、アフターサービスなど多くの部門の社員が当事者でした。
「販売会社でも”ラリーの三菱”に憧れて入社した人が多く、店舗のサービスエンジニアをメカニックとしてラリーに派遣するという制度もありました。また、ダカール・ラリーでの活躍で『パジェロ』の知名度や人気が上がったこともあり、販売会社の人たちも三菱自動車チームの活躍を期待していました。」

ラリーでの整備風景

『デリカ D:5』や『アウトランダー』も砂漠を走る

ラリー競技で得たノウハウがどれだけ市販車に生かされたのか。その証が『デリカ D:5』であり『アウトランダー』です。ダカール・ラリーでこの2車種も活躍していたことはあまり知られていません。
「ダカール・ラリーの規則が変更になり、メカニックやエンジニアもクルマで移動することになりました。そこで投入されたのが『デリカ D:5』と『アウトランダー』です。ただ、移動といっても日本の舗装路を走るのとは全く違います。舗装されていても凸凹が激しく、大きな穴が開いていることさえある。舗装されていないダート道を走ることもありました。それでも途中で止まってしまえば、その日のサービスができなくなってしまう。市販車にとっては過酷な状況の中、不具合も起こさずに確実に走り切ったのです。」(乙竹)
「ダカール・ラリーは2~3週間続く長丁場のレース。クルマの移動で疲れてしまうと夜のサービス作業に支障が出ます。特に『デリカ D:5』はワンボックスタイプですから、本当に走り切れるのかと、みんな心配していたんです。スペアパーツをたくさん持っていきましたが、結局、何も使わなかった。悪路も走行できる世界で唯一無二のミニバンです。」(増岡)
どんなに過酷な状況でも「もっと走りたい」と思わせてくれるのが三菱自動車らしさ。そして、そのDNAは、電動車両でのモータースポーツへの挑戦へと続いていきます。

(Part3へ続く)

2007年『デリカD:5』(パリダカサポートカー)