増岡浩のパリダカ参戦への軌跡を知られざるエピソードとともに振り返る
【No.3】 2002年〜2007年 パリダカ連覇 そしてプロのラリー・ドライバーへ
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【No.1
1985〜1988】 【No.2 1999〜2001】 【No.3
2002〜2007】
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2002年は、私にとって生涯忘れることのできない年になりました。長年の目標であったパリダカで優勝をすることができたのです。15年間抱き続けてきた夢がついに叶った。ゴールのダカールでポディウムに上った時は、涙が出て止まりませんでした。フランスでの辛かった修業の日々や、私をしっかりと支えてくれた家族の顔が頭に浮かんできて涙があふれ出てきました。そして、自分ひとりの力ではなく、多くの人々に支えられてここまでこれたのだと、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
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2002年パリダカ 悲願の初優勝 ポディウムでは号泣 |
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そして、翌年、2003年は新しい課題とぶつかりました。ディフェンディング・チャンピオンとしてタイトルを防衛しなければならない。絶対に負けてはいけないというプレッシャーは、想像以上に大きくのし掛かってくるものです。しかも、この年からはチームメイトとしてステファン・ペテランセルが加入した。バイクで6回パリダカ優勝を果たした彼を私はとても尊敬していますし、その才能もよく知っている。ペテランセルがかつてないほど強力なライバルとなるであろうことを私は予感しました。その予想通り2003年のパリダカは私と彼の一騎打ちになりました。彼はとても速かった。終盤は自分のミスもありだいぶリードを許しました。しかし、私は決して自分を見失わないように心がけたのです。ゴール到着の日にペテランセルがトラブルで後退しトップに立った時は、自分の考えが正しかったのだなと実感しました。パリダカはただ速いだけでは絶対に勝てない。なるべくマシンに負担をかけないように走り、なおかつ性能をキチンと引き出さなければならないからです。その見極めはとても難しい。経験によって学ぶしかないかもしれません。積み重ねてきた長年の経験が、2003年のパリダカでは生きたということでしょう。
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パリダカ2連覇を果たした私は、3連覇と通算最多勝利となる5勝という目標を立てました。口で言うのは簡単ですが、その難しさは誰よりも私が一番よく知っている。しかし、自信はありましたし、努力をする決意もできていました。そして、私は走ることに専念すべく、長年お世話になったラリーアートを離れプロドライバーとして独立する決意をしたのです。しかし、そうして臨んだ2004年パリダカの結果は2位。優勝はチームメイトのペテランセルで、3連覇の夢は消え去りました。敗因はただ1度のシフトミスでした。19日間にわたるラリーの中で1回だけ犯したミスが致命傷となって砂漠の中で動けなくなり大幅にタイムをロスしたのです。これ以外は完璧なラリーだっただけに正直言って悔しかったですが負けは負け。自分では結果に納得しています。
続く2005年はモロッコでの事前テストからペテランセルとは違うサスペンションセッティングを探り、自分なりに納得してパリダカに臨みました。ところが序盤のモロッコの短いSSでパンクして遅れ、翌日の大事なステージのスタート順が悪くなってしまったのです。次の日、私は酷い埃の中を先行車をパスしながらプッシュを続けましたが、そのさなかに溝にはまってサスペンションアームを破損。2時間をロスしてしまいました。翌日からチームメイトのサポートに回った私は、中間休息日までに6番手まで順位を上げていましたが、後半戦の初日にエンジンが破損。あっけなくリタイアを余儀なくされてしまったのです。12年ぶりのリタイアはショックでしたが、メカニックが分解したエンジンの内部を見て私は驚きました。1馬力でもアップさせようと今までにない改良を施していたのです。トラブルは非常に残念ですが、ドライバーもエンジニアも極限の世界で戦っているのは一緒。それは賞賛されるべきチャレンジだと思いました。
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パリダカは自分との闘い |
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05年大会はペテランセルの連覇で幕を閉じました。優勝を狙っていただけにリタイアのもたらした精神的ダメージは経験したことのないものでした。でも、帰国後、全国を巡る報告会やイベントで接したファンの方々から優勝したとき以上に暖かい労いの言葉や励ましのメッセージを頂いたことで、それに応えたいという気持ちが高まってきました。
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そうして迎えた06年大会。初のスタート地となったリスボンでラリーが始まると、私はヨーロッパステージを6位で終え、モロッコの初日で総合2位に浮上しました。気負いもあせりもなく、全く順調な滑り出しです。ところが、その翌日のSSで思いもよらぬ事態を迎えてしまいました。約100km地点の砂漠を時速140km程度で走行中、交差する舗装道路を横切った直後、私は大きな穴があるのに気付きました。しかし、次の瞬間には穴に落ちたマシンは跳ね上げられて前転。リアから着地し、さらにもう一回転して止まりました。ナビのパスカルがロードブックに記されているトリプルコーション(!!!=最も危険度の高い注意箇所)のサインを見落としてしまったのです。幸い2人に怪我はなく、その後も走行を続けてゴール。総合順位は13位まで後退しましたが、マシンが修復されれば明日からの追い上げでまだ逆転は可能とビバークに着いた私はそう考えていました。しかし、実際にはロールケージの損傷がひどく競技続行は難しい…。チームは熟慮の末に決断を下しました。ドライバーとナビが力をあわせ、正しいルートを見出しながら可能な限り速く走ってタイムを競うのがパリダカです。ですから、競技中の責任は常に2人にある。私はそう考えています。とはいえ、一瞬の出来事で勝負を失う、パリダカの厳しさを改めて深く感じたのも事実です。あまりにもあっけない幕切れ、経験したことのない2年連続のリタイアの悔しさに、私は正直なところ、しばらく気持ちの整理がつきませんでした。でも、ゴールのダカールを訪れ、チームの優勝をまのあたりにすると、自然と闘志が沸いてくるのを感じました。
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07年大会は私にとって20回目のパリダカとなりました。参戦車両もフレームから全てを一新した新型『パジェロエボリューション』(MPR13)へと進化。卓越した運動性能を備える新型は最高の一体感を持って走らせることが出来、私は自身の3勝目獲得に向けて良いフィーリングで前回と同じリスボンのスタートを切りました。しかし、アフリカステージ初日から予想外のパンクに悩まされ、さらに4日目にはSSスタート直後からクラッチが滑りはじめてコース上で交換することに。これで総合9位まで後退を余儀なくされましたが、私は諦めることなく走り続け、総合5番手まで挽回して中間休息日のアタールに到着しました。ところが難所のマラソンステージを控えて気合で臨んだ後半戦の初日、SSスタートから僅か25kmで2度目のクラッチトラブルが発生。さらに修復直後には立て続けに4本ものパンクに見舞われてしまいました。チームメイトのロマからスペアタイヤを借りて走り切ったもののロスタイムは大きく、残念ながら優勝争いからは離脱です。私はペテランセルとアルファンのサポート役に回り、終盤には少量のスペアパーツを積んでダカールを目指しました。結果はペテランセルが優勝してチームは7連覇と通算12勝を達成。優勝は逃しましたが最終的に総合5位で3年ぶりとなる完走を果たした私はチームの勝利に貢献出来たことを嬉しく思うと同時に次回に向けて確実な手応えをつかむことが出来ました。正直悔しさはありますが、トラブルさえなければ今回の三菱とVWのドライバーはみんな優勝戦線に残るだけの実力を持っていたと思います。これもまたラリーなのです。
08年大会に向けて私は今、いつも以上に意欲を漲らせています。パリダカとしては通算30回目の記念大会となり、そしてまた自分をここまで育ててくれたパジェロがワークスカーとして出場する最後のラリーになるからです。09年大会から三菱チームは新開発のクリーンディーゼルターボエンジンを搭載した全く新しい車両で参戦する計画で、開発ドライバーを担当する私はすでにテスト走行を重ねています。新車両の感触は素晴らしく、これで09年パリダカを戦えると思うと、今からとてもワクワクします。ともあれワークスパジェロエボリューションの最後となる次回大会はフォルクスワーゲンをはじめとするライバル勢もますます力をつけ、前回以上に熾烈な戦いは必至でしょう。しかし、その中で私はなんとしても自らの手でパジェロに有終の美を飾らせるべく全力を尽くす覚悟です。
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